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冬は富士、夏は花火 第26回卒業生 木村一雄

 大正13年生まれです。現在の校舎が落成した翌年の昭和6年に入学して、「ハナ、ハト、 マメ、マス」でまなびはじめた。1クラス40人ほどで、女組、男女組、男組の3クラス。 担任は6年まで一貫して講談好きの山田先生で、英雄豪傑の話をよく聞かせてくれました。 放課後に補習授業をしてくれても、遊んでたと言っておきなさい、というような気っ腑の いい先生でした。だんぜんそびえる新校舎で、生徒はもちろん先生方も張りきっていまし たよ。屋上から冬は富士山が、夏は両国の花火が見えた。むかしは冬もしっかり寒くて、 不忍池に張った氷の上をこわごわ歩いたり。ベーゴマ、けん玉、めんこ。遊びや喧嘩やい たずらを、話しだしたらきりがないよ。
 5人兄弟がみな黒門。私の息子2人に、孫3人も、みんな黒門小の卒業で、三代あつま れば同窓会です。

(きむらかずお・「明正堂書店」会長)

仰げば尊し 第33回生 岡野俊一郎

 昭和13年入学、昭和19年卒業、まさに日中戦争・太平洋戦争の真最中に、6年間を黒門 小学校で過ごしたわけだが、いま振り返ってみて嫌な思い出は一つも無い。素晴しい日々 だった。入学時の安西校長先生をはじめ、卒業時の小野校長先生まで、担任だった阿部先 生、福田先生、体操の藤森先生そのほか本当に生徒を慈しんで下さる先生方ばかり。 卒業式の「仰げば尊しわが師の恩……」は涙を流して歌ったのを忘れないし、「御世の光 と師の恵み……」の校歌も全部覚えている。校舎も戦災を受けず昔のまま! その母校が100周年を迎える。時の流れの早さを思うと同時に、記念すべき祝いの日 に立ち会える事を心から喜んでいる。

(おかのしゅんいちろう・「岡埜栄泉」社長)

母たちも孫たちも 第37回生 土肥好子

 二人の孫がこの春に、4年生と2年生に進級しました。運動会の応援に参りますと、校 庭の一角にいまも二宮金次郎像があって、登下校時にお辞儀をしていたことなどを、あれ これ懐かしく思い出します。戦争中でしたから、遊びはもっぱら道具いらずの、かくれん ぼや鬼ごっこ。校舎は階段がデパートみたいに広くて立派で、そこで男の子を突いたりし て、おてんばでした。エビやカニを捕って遊んでいた不忍池にも、空襲では焼夷弾がいく つも落ちました。防空壕が学校にあり、うちの池之端の本店がまだ木造二階屋で、その地 下にもつくりました。学童疎開のときには私は千葉へ縁故疎開をしました。
 大正生まれの母喜美子も、その兄弟6人も、みんな黒門。孫たちは下にもう2人いて、 順に新入生になりますから、たのしみです

(どいよしこ・「伊豆栄」大女将)

スチームと達磨と 第50回生 栗林清子(旧姓 小室)

 祖母、母、私の三代が卒業生です。 明治35年生まれの祖母梅は、黒門尋常小学校が創立 して落成したばかりの木造新校舎へ、竹町小学校から転入しました。  昭和4年生まれの母俶子は、まだ戦争前の物資豊かなころの入学でした。みんな通学む きの服装で、母も上等の革靴はいて通ったそうです。鉄筋校舎が全室スチーム暖房でした。
 昭和24年のベビーブーマーの私のころは、有りあわせの服装で、みんなばらばらの恰好 でした。スチームは使えないまま、部屋ごとの達磨ストーブでした。
 この話になると母はきまって、戦争で時代が逆行したのね、わたしの頃のほうがずーっ と設備がよかったと自慢になり、すると祖母が、わたしの頃も洋風の校舎がとてもハイカ ラで尖端的だったのよ、と盛りあがったものです。
 ものは乏しく夢はいっぱいの昭和30年代も素敵でした。入学式の写真に私はいません。 はしかにかかり欠席、代わりに参列した母が、緊張気味の新入生たちの中に満面の笑みで 納まっています。よほど母校が懐かしかったのでしょう

(くりばやしきよこ・「鉢の木」専務)

われらが黄金時代 第50回生 君野信太郎

 私と、妹の麗子、秀子と、息子の玄一、元治、娘の水香。以上、二世代の5名が卒業生 です。校舎が変わらないから、たちよれば通学していたころの気持ちになります。屋上の コンクリート製の日本地図や、現講堂のところの屋外プールや、階段の脇のコークスの山 などが、いまは無いので、歳月が過ぎたことにも気づかされます。
 当時のクラスメイトが、この界隈に数名はいるので、集まれば昔話に花が咲きます。授 業中に話していると、先生のチョークが飛んできたり。授業が終われば、校門前に粘土の 型を売るおじさんがいて、型からうまく取りだし色粉をつけてきれいに仕上げると、飾っ てもらえて賞品に大きな型がもらえました。不忍池へ手長エビ、クチボソなどを釣りにゆ き監視員のおじさんがくるとワッと逃げたり。友だちの家の屋根にのぼって鼠小僧ごっこ をしたり。いまでは許されないような黄金時代への郷愁がわきます。先生、給食のおばさ ん、先輩、同輩、後輩のみなさん、100年の歴史に畏敬の念です。黒門小学校万歳!

(きみのしんたろう・「君野園」社長

未来を担う宝 第57回生 冨坂保春

 東京オリンピックのときは4年生で、高度経済成長期ただなかの昭和42年度の卒業です。 母ふみ子、私、弟、妹、その妹の子供達も、みなOBで、弟の子供2人は今まさに黒小生 として、お世話になっております。
 少子高齢化のこんにち、未来を担う宝である子供たちが健やかに育つ教育が求められる なかで、岡野俊一郎氏をはじめ、作曲家小椋佳氏など、日本を代表する方々を輩出した黒 門小学校は、一OBとしても大変な誇りです。私事ながら家業のオモチャ屋においても、 子供たちに明るい未来へ夢の商材を提供するべく、よりいっそう努力してゆく所存です。
 過去があってこその現在で、いまこの時があっての未来です。これからもすばらしい逸 材が社会に巣立っていくことを、そして150年、200年とつづく母校のご隆盛を、心 より祈念いたします。

(とみさかやすはる・「ヤマシロヤ」専務)

一万二〇七名の若緑 第60回生 宇野吉晴

 娘が今春、おかげさまで黒門小学校を卒業しました。卒業式当日はあいにくの天候でし たが、生徒たちの顔は校歌にもある若緑に輝いて、校歌斉唱のさいにはおもわず目が潤み ました。おもえば父が16回、私が60回、娘が99回卒業と、親子三代お世話になって、姉二 人も卒業生です。叔母の中村京子は昭和40年ごろ当校で教鞭をとっていたこともあり、格別のご縁をおぼえます。
 在学中は一学年3クラス100人前後はいましたが、現在上野にいる同級生はわずか数 名です。ランドセルを背負ったまま上野公園で暗くなるまで遊んでいて、母を何度も心配 させたり。理科室の人体標本の模型(怖かったですよね)を毀したり。授業の邪魔をして バケツをもって廊下に立たされたり。旧友たちと話しだしたら止まらないでしょうね。
 藤原校長先生のお話では、今年で1万207名の卒業生を送り出したとのことですが、 つまり1万207名分の想い出があるのですね。これからも幾千幾万の、誉れあるわが学 舎の想い出がふえていくことでしょう。黒門小学校万歳!

(うのよしはる・「ライフコーヒー」店主)

心意気に支えられ 第62回生 渡邉哲雄

 昭和42年に入学、1組はたしか42名で、卒業までクラス替えはなく、同じ仲間と過ごし た。1・2年は篠田先生、3・4年は浜口先生、5・6年は井口典子先生で、お二人は鬼 籍に入られたが、井口先生はご健在。たいへん厳しい先生だったが、私が育ての会の会長 になってから、不出来な教え子が心配なのか、さまざまな行事に顔を出していただける。 卒業してから殆ど関わりはなかったが、長男が入学してより、むりやり育ての会の副会長 にさせられ、会長になってから8年目を迎えた。この立場になって改めて実感することは、 地域のみなさんや同窓生のみなさんの黒門に寄せる深い愛情と心意気に支えられているこ とに尽きる。いよいよ創立100周年を迎える。黒門に寄せるすべての方々の思いを結集 できるような周年行事をめざして頑張りたい。

(わたなべてつお・「肉の大山」社長)

 


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