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松竹歌劇の60年 レビューの舞台とスターたち

丸浜晃彦

(右)東京劇場「らぶ・ぱれいど」アルフレッド役の水の江瀧子 昭和7年 (左)アトミック・ガールズ 第58回「東京踊り」 昭和43年

(右)東京劇場「らぶ・ぱれいど」アルフレッド役の水の江瀧子 昭和7年 
(左)アトミック・ガールズ 第58回「東京踊り」 昭和43年

 昭和3年(1928)に東京松竹楽劇部が発足して以来、松竹歌劇は、60年以上の長きにわたって大衆の人気を得てきました。東京松竹楽劇部が松竹少女歌劇部、松竹少女歌劇団と改称し、さらに昭和20年に名を改めて再出発したのが松竹歌劇団(SKD)でした。

本展は、松竹歌劇の半世紀以上にわたる軌跡を、プログラム、パンフレット、舞台写真などを中心に、公演の映像、楽屋や稽古の様子をつたえる資料を交えてたどりました。また松竹歌劇から巣立った水の江瀧子、オリエ津阪、川路龍子、小月冴子、草笛光子、淡路恵子、倍賞千恵子・美津子姉妹などの人気スターたち、ジャズや歌謡ショーなどの国際劇場の関連資料も合わせて展示しました。この紙面では、東京松竹楽劇部から松竹歌劇団までの概略を記しました。

 東京松竹楽劇部
松竹歌劇団の前身である松竹楽劇部は、大阪松竹座の開業(大正12年)に合せて、西洋風の音楽舞踊を上演するため、大正11年(1922)に大阪で発足しました。大阪松竹楽劇部は昭和3年(1928)8月に浅草松竹座の開場記念公演「虹のおどり」を行い、好評を博したことから、10月に東京松竹楽劇部が創設されました。

 12月7日から大阪楽劇部の上京公演「奉祝行列」が浅草松竹座で行われ、東京松竹楽劇部はその応援出演という形でスタートを切ります。5年3月には、関東大震災からの復興をテーマにした帝都復興レビュー「世界の東京」を浅草松竹座で公演、4月には、その後恒例となる「東京踊り」の第1回公演が行われました。9月の浅草松竹座「松竹オンパレード」では、司会役の紳士に扮した水の江たき子.. 瀧子)が、シルクハットにタキシードというスタイルで髪をショートカットに刈上げて現れ、男装の麗人として人気を呼びました。翌6年の舞台では、拳銃を手にカウボーイ姿で「オレこそは、ミズノエ・ターキーだぁ」と大見得を切って喝采を浴び、以来ターキーの愛称で呼ばれるようになりました。水の江はじめ、オリエ津阪、小倉みね子などのスターが生まれた楽劇部は、昭和7年10月、松竹少女歌劇部と改称されました。

 松竹少女歌劇団
昭和8年(1933)6月、松竹座音楽部員の待遇改善要求に歌劇部員が合流し、当時19歳だった水の江瀧子がこの争議の代表に押されました。これは「桃色争議」と呼ばれる騒動に発展しますが、最低賃金制定などが盛り込まれた覚書が交わされて解決。この騒動によって、歌劇部は解消、松竹少女歌劇団があらためて創設され、以後、名作といわれた「タンゴ・ローザ」(東京劇場)などが上演されました。

(右)第35回「秋の踊り」昭和45年左より、邦枝輝子、沖千里、小月冴子 
(左)「第2回歌舞伎おどり」昭和27年「お富と与三郎」お富役の小月冴子 
(右)第35回「秋の踊り」昭和45年左より、邦枝輝子、沖千里、小月冴子
(左)「第2回歌舞伎おどり」昭和27年「お富と与三郎」お富役の小月冴子

 歌劇団の本拠となる国際劇場は、昭和12年7月3日、浅草芝崎町の幸竜寺跡地(現西浅草3丁目・浅草ビューホテルが建つ地)に「第8回東京踊り」で開場、定員3600という東洋一を誇る大劇場でした。国際劇場開場後、戦争の時代を反映して、次第に戦時色の濃い舞台が多くなり、昭和13年11月には、水の江瀧子、川路龍子ら8名が戦線慰問のため中国に渡りました。昭和19年3月には、決戦非常措置令により各劇場が閉鎖され、国際劇場は風船爆弾の製造工場となりました。歌劇団は一時解散となって松竹芸能本部女子挺身隊が結成され、戦地や国内の工場などへの慰問公演を行いました。20年3月10日の東京大空襲では国際劇場も外壁を残して内部を焼失、大きな被害を受けて終戦を迎えました。

 松竹歌劇(SKD)
戦争が終わって焼け跡から復興へ、松竹少女歌劇団も、昭和20年(1945) 10月に松竹歌劇団(SKD)と改称し、浅草大勝館で在京30名の出演による第1回公演を行いました。国際劇場は22年11月に復興開場し、その記念公演「ラッキー・スタート」は、長谷川一夫の一座の実演と併演でした。

再開された舞台で戦後の若者を魅了したのはラインダンスでした。中でも迫力あるアトミック・ガールズが生まれたのは昭和26年。翌27年には、コミカルな歌と踊りの3人組、スリー・パールズ、31年3月の「東京踊り」では、グラマーチームとして、8人組のエイト・ピーチェス、36年には、ダンスチーム、ファイブ・フェザースを編成して、歌劇団の新しい魅力を引き出しています。歌劇団のレビューは、スピーディーな場面の展開、美しい衣裳をまとった踊り子たちのダイナミックな踊り、昭和29年から始まった舞台上の建物などをくずす「屋台くずし」、34年6月の「夏のおどり」から本物の水を使った大滝と噴水など大掛かりな舞台装置が名物となり、観客を魅了してきました。長い間親しまれた国際劇場のレビューでしたが、57年4月5日、最終日を迎え、その後は、平成2年2月の公演を機に、歌劇団はミュージカル劇団として再出発するために休演、2年間の充電期間を経て公演を再開しますが、平成8年、多くのファンに惜しまれながら、その歴史に幕をおろしました。

台東区の芸能・娯楽史を語るうえで欠かすことのできない松竹歌劇とその魅力あふれるレビューの世界をご覧ください。

(まるはまあきひこ・台東区立下町風俗資料館専門員)

 


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