左:動物(犬)遺体検出状況 右:早桶・人骨検出状況
「下谷同朋町遺跡出土人骨」
下谷同朋町遺跡は、台東区上野3丁目26番地に所在し、近世の遺構から人骨が出土しました。江戸時代の中で人骨が出土する遺構では、寺院の墓域である可能性が高く、当該地域において寺院が存在した記録や絵図から、江戸時代初めの17世紀代に所在した寺院にともなう人骨であることはほぼ間違いないでしょう。
人骨は、方形木棺や円形木棺、骨壺など色々な埋葬施設から出土しました。これらの埋葬施設は、江戸市中の一般的な庶民のものです。人骨の総数は128体を数え、子供21体、青年25体、成人69体、老年1体、不明12体に分類できました。その判断基準は、主に歯を用い、さらに頭蓋骨の縫合の状態や加齢による変化などから総合的に判断します。
また、成人では男性が29体、女性が28体、男女不明が50体とわかりました。男女の判別は、骨盤周辺の骨で判定します。特に、性別判定に使用する箇所は非常にもろく、残りが悪いので、同朋町遺跡出土人骨も、性別不明のものが多くなっています。なお、子供の場合は、骨から性別の判断は非常に困難で、性別判定は行いません。成人以上の個体の推定身長は、男性は約155p、女性は約149pとなり、江戸時代平均とほぼ同じです。
一般的に、江戸時代の庶民の顔は、鼻根部が平坦で、団子鼻で、頬骨が張り出し、寸が詰り、下顎骨がしっかりしている印象です。しかし、同朋町遺跡出土の人骨ではそのような顔面はあまりなく、どちらかというと頬骨は張り出しつつも、顔が高い(長い)ので、頬骨の張り出しを特に感じず、梨状口(鼻の部分)も縦長で、団子鼻の印象は受けません。とはいえ、私たちからみると「ごつい顔」であることには変わりありませんが。その一方、上級武士や富裕層は、今の若者にも類似するほど、華奢で非常に現代的な顔面です。そのような顔の特徴は、食べ物などの生活習慣に影響されます。将軍や上級武士や富裕層は、魚介類、鳥獣類、野菜類、果物、穀類など、現代人とほとんど同じような食材を食べていたという記録が残っており、武士の屋敷のゴミ廃棄遺跡から同様のものが出土しています。ただ、下層民衆の食べ物については詳細な記録がなく、当遺跡からも出土していないようです。しかし、食材の差こそあれ、タイではなくイワシというように、同じ種類のものは食べていたでしょう。
人骨のほかに、丁寧に埋葬されたイヌが数体検出され、そのほとんどが解剖学的配列を保っており、死後すぐ埋められたと思われます。綱吉の「生類哀れみの令」は1687年発布ですので、その法令に従って埋葬されたと考えていいでしょう。
「江戸市中の庶民と発掘された人骨」
江戸市中から出土する人々は、寺請制度に組み込まれ、旦那寺を持ち、宗門人別改によって把握されていると通常考えられています。しかし、把握されている人々は旦那寺を持つ者であり、100万人といわれる巨大都市江戸の膨大な労働力を形成しているのは、旦那寺を持たない下層民衆で、その大部分は農村からの流入者であり、単身者です。
このような下層社会に停留する人々が死亡した場合に、請人や人宿などの人材派遣業者らが自らの旦那寺に「仮取置」し、地方の家族や親類縁者の引き取りや、知り合いが見つかるまでの間埋葬していました。ですから、江戸市中から発掘される人骨には相当数この仮取置の人骨も含まれていると思われます。
国立科学博物館新宿分館人類研究部の標本庫には6000体以上の出土人骨が所蔵されています。それらの3分の2は江戸時代の遺跡から発掘されたものです。人骨は一体ごとにクリーニングし、接合し、復元します。頭蓋骨はまさに立体パズルです。接合できているようでも徐々に歪みが生じ、簡単に接合できません。パズル好きで、負けず嫌いの方には是非挑戦してもらいたいものです。
復元後は、年齢や性別を総合的に分析し、国際標準の計測法で計測します。それにより個体のデータ、それらをまとめた遺跡出土人骨群のデータを収集し、最終的には縄文時代から江戸時代の「日本人」のデータとしてまとめます。また、どんな病気に罹患していたのか、どんな食べ物を食べていたのか、中には、それぞれの人骨同士の親族関係などのDNA分析を行います。
その後、資料庫の棚に指定席が与えられます。中には、上野本館に展示したり、日本各地の博物館に貸し出したりします。あるいは、教科書など文献に掲載され、国内外の研究者の研究対象資料となります。たかが一体の人骨、されど一体の人骨であり、色々な情報を得ることができます。
(かじかやままり・国立科学博物館人類研究部) |