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下谷同朋町遺跡は語る この鍋島の尺皿が完品であったら? 杉江雄治

肥前系鍋島藩窯の磁器染付木盃形大皿

肥前系鍋島藩窯の磁器染付木盃形大皿

「下谷同朋町の埋蔵物について美術商の見地から書いて下さい」と強引に仰せつけられた時には、たいへん弱ってしまいました。正直に言って下級武士の住居の跡ですから、染付けのタコ唐草の生活雑器などが主で、現在において美術的に価値が認められるものは無いのではないかと、すぐに頭に浮かびました。

ともかく店の近くで発掘されたのですから、後学のためにも一度見にゆくことにして、10月末に台東区の小俣先生のところにお伺いしました。

さて、埋蔵物の陶片を拝見すると、江戸時代の陶磁器の主生産地である有田(伊万里焼)瀬戸などの焼物が多数を占めていました。しかし小量ですがさまざまな焼物があり、その分布は全国にわたり沖縄の陶片までありました。

また時代的には、江戸時代初期(寛永頃)より幕末にまで、さまざまでした。その中で鍋島焼の大皿の陶片があったのには驚かされました。

当時日本において磁器( 磁じ石せきを原料とし高温で焼いた焼物)の生産では、佐賀県の鍋島藩がほぼ独占していました。大量の磁器は伊万里焼として、全国に行き渡り、藩の財政を豊かなものとしていたのです。

その伊万里焼のなかでも最高級の品質の焼物を、藩直轄の窯で生産していました。それが鍋島焼で、一般に市販されることはいっさい無く、幕府への献上物、他大名への贈答品としてのみ使われていたのです。

鍋島焼には皿が多く、直径が五寸(小)、七寸(中)、一尺(大)と三つの規格があります。その中で尺皿はとても数が少なく貴重な代物なのです。特にそれが色絵の場合、完品で存在するものは三十数点しかありません。この陶片は染付なので完品はもっと増えますが、色絵三点、染付一点が国の重要文化財に指定されています。我々美術商の相互の取引でもあまり類例が無く、色絵尺皿は一億円を越えたケースもあるのです。その陶片があったのですから、驚かずにはいられませんでした。

この下谷同朋町遺跡には、かつてお寺が三つあり、その一つは春日局に関係した寺で、家光、家綱、綱吉の三人の将軍の祈願所になっていたよし。

また、同朋衆とは幕府若年寄支配に属し、幕府高官、有力大名にも接触できた特殊な立場の武家集団です。

それゆえ、この鍋島焼や、紙数で言及は省きますが織部焼向付の陶片などがあったのかと思われます。

最後に美術商の本性として、小俣先生に、「鍋島焼の中皿でも完全な状態で発掘されるケースがありますか」とおたづねすると、「その確率はかなり低い」とのこと。やはりと思い、ペンを置きます。

(すぎえゆうじ・杉江美術店店主)
・図版 下谷同朋町遺跡報告書より

下谷同朋町遺跡は語る 下谷同朋町 骨ものがたり 梶ヶ山真里

左:動物(犬)遺体検出状況 右:早桶・人骨検出状況

左:動物(犬)遺体検出状況 右:早桶・人骨検出状況

「下谷同朋町遺跡出土人骨」

下谷同朋町遺跡は、台東区上野3丁目26番地に所在し、近世の遺構から人骨が出土しました。江戸時代の中で人骨が出土する遺構では、寺院の墓域である可能性が高く、当該地域において寺院が存在した記録や絵図から、江戸時代初めの17世紀代に所在した寺院にともなう人骨であることはほぼ間違いないでしょう。

人骨は、方形木棺や円形木棺、骨壺など色々な埋葬施設から出土しました。これらの埋葬施設は、江戸市中の一般的な庶民のものです。人骨の総数は128体を数え、子供21体、青年25体、成人69体、老年1体、不明12体に分類できました。その判断基準は、主に歯を用い、さらに頭蓋骨の縫合の状態や加齢による変化などから総合的に判断します。

また、成人では男性が29体、女性が28体、男女不明が50体とわかりました。男女の判別は、骨盤周辺の骨で判定します。特に、性別判定に使用する箇所は非常にもろく、残りが悪いので、同朋町遺跡出土人骨も、性別不明のものが多くなっています。なお、子供の場合は、骨から性別の判断は非常に困難で、性別判定は行いません。成人以上の個体の推定身長は、男性は約155p、女性は約149pとなり、江戸時代平均とほぼ同じです。

一般的に、江戸時代の庶民の顔は、鼻根部が平坦で、団子鼻で、頬骨が張り出し、寸が詰り、下顎骨がしっかりしている印象です。しかし、同朋町遺跡出土の人骨ではそのような顔面はあまりなく、どちらかというと頬骨は張り出しつつも、顔が高い(長い)ので、頬骨の張り出しを特に感じず、梨状口(鼻の部分)も縦長で、団子鼻の印象は受けません。とはいえ、私たちからみると「ごつい顔」であることには変わりありませんが。その一方、上級武士や富裕層は、今の若者にも類似するほど、華奢で非常に現代的な顔面です。そのような顔の特徴は、食べ物などの生活習慣に影響されます。将軍や上級武士や富裕層は、魚介類、鳥獣類、野菜類、果物、穀類など、現代人とほとんど同じような食材を食べていたという記録が残っており、武士の屋敷のゴミ廃棄遺跡から同様のものが出土しています。ただ、下層民衆の食べ物については詳細な記録がなく、当遺跡からも出土していないようです。しかし、食材の差こそあれ、タイではなくイワシというように、同じ種類のものは食べていたでしょう。

人骨のほかに、丁寧に埋葬されたイヌが数体検出され、そのほとんどが解剖学的配列を保っており、死後すぐ埋められたと思われます。綱吉の「生類哀れみの令」は1687年発布ですので、その法令に従って埋葬されたと考えていいでしょう。

「江戸市中の庶民と発掘された人骨」

江戸市中から出土する人々は、寺請制度に組み込まれ、旦那寺を持ち、宗門人別改によって把握されていると通常考えられています。しかし、把握されている人々は旦那寺を持つ者であり、100万人といわれる巨大都市江戸の膨大な労働力を形成しているのは、旦那寺を持たない下層民衆で、その大部分は農村からの流入者であり、単身者です。

このような下層社会に停留する人々が死亡した場合に、請人や人宿などの人材派遣業者らが自らの旦那寺に「仮取置」し、地方の家族や親類縁者の引き取りや、知り合いが見つかるまでの間埋葬していました。ですから、江戸市中から発掘される人骨には相当数この仮取置の人骨も含まれていると思われます。

国立科学博物館新宿分館人類研究部の標本庫には6000体以上の出土人骨が所蔵されています。それらの3分の2は江戸時代の遺跡から発掘されたものです。人骨は一体ごとにクリーニングし、接合し、復元します。頭蓋骨はまさに立体パズルです。接合できているようでも徐々に歪みが生じ、簡単に接合できません。パズル好きで、負けず嫌いの方には是非挑戦してもらいたいものです。

復元後は、年齢や性別を総合的に分析し、国際標準の計測法で計測します。それにより個体のデータ、それらをまとめた遺跡出土人骨群のデータを収集し、最終的には縄文時代から江戸時代の「日本人」のデータとしてまとめます。また、どんな病気に罹患していたのか、どんな食べ物を食べていたのか、中には、それぞれの人骨同士の親族関係などのDNA分析を行います。

その後、資料庫の棚に指定席が与えられます。中には、上野本館に展示したり、日本各地の博物館に貸し出したりします。あるいは、教科書など文献に掲載され、国内外の研究者の研究対象資料となります。たかが一体の人骨、されど一体の人骨であり、色々な情報を得ることができます。

(かじかやままり・国立科学博物館人類研究部)

下谷同朋町遺跡は語る 発掘調査で甦る江戸時代の墓地と町屋 小俣 悟

「東京三千分の一図」(昭和31〜34年)

「東京三千分の一図」(昭和31〜34年)

平成15年頃から御徒町駅西側土地区画整理事業が始まり、駅南口西隣地の旧松坂屋敷地が区有地となり、その地下に東京電力の変電所が新設されることになった。平成8年末や10年春には、隣の御徒町駅構内にて江戸時代の武家屋敷の遺跡が調査されており、当地でも江戸時代や古代の遺跡が存在していることが予想された。よって遺跡の存在を確認するための試掘調査を平成9年11月に実施したところ、近世遺跡が発見された。調査地内は大半が松坂屋の旧駐車場で、西側中央部分の地下が大きく掘られ、また所々も壊されており、遺跡の状態はあまり良好ではなかったが、東側及び北側はかなり良く残っており、貴重な成果が得られた。

調査地は、江戸時代は将軍などが寛永寺に参拝する参道である「下谷広小路」(あるいは「上野広小路」)の東南に位置し、絵図等から江戸時代前期( 17世紀頃)は、北側が屋敷地(「辻番屋敷」)、他が寺院地(正行寺・真行寺・金性院)である。なお金性院は徳川家光等将軍家の祈願所であった。中期以降は同朋衆(江戸城内にて将軍等の世話係り)の拝領町屋「下谷同朋町」となる。東側は道路地で更にその東は御徒衆等の武家地である。低地に立地した遺跡で、縄文時代頃には海中であったが、その後に海が退き、江戸時代以前には川の氾濫などにより砂や小石が堆積して陸地化したものである。江戸時代では火災等の災害の片付けや土地利用の変化により、そのつど盛り土をして利用しており、最初の本格的な土地利用は江戸時代初期頃( 17世紀前半)で、現地表より深さ約1・8m(標高約1・4m)に発見された。江戸時代を通しての利用は大きく6回あり、最後は江戸時代後期 19世紀)で、深さ約1m(標高約2・2m)となる。その上に最近の盛り土があり、遺跡を覆っていた。発掘調査は北半分と南半分に分割し、北半分側から始めた。まず最近の盛り土などを機械力で大きく除去し、遺跡の面は人力を中心に丁寧に掘り下げていった。

左:上水施設 右:土蔵基礎

左:上水施設 右:土蔵基礎

発見された遺構(生活等の痕跡)は江戸時代初期から明治時代頃までで、東側では両端に側溝を持つ、南北の道路跡が、江戸時代前期からほぼ同じ位置に重なって見つかっている。道路は前期では幅約3・3m(2間)だが、その後は約5・5m(3間)に広がる。側溝も当初は素掘りであるが、その後は木組み(木もく樋ひ)となる。現在の道路は線路沿いに、より東側になるが、鉄道敷設により鉄道沿いの区画が変化したものと思われる。また18世紀後半頃の道路には竹製の上水施設(竹たけ樋ひ)が発見されている。道路真中を南側から敷かれ、調査地中央で円形の枡によって東に切り替えられている。武家地に供給するための施設と見られ、おそらく「千川上水」から導水されているものであろう。道路西側では敷地の区画割りが見られた。区画は、東西の排水を兼ねた、主に木組みの溝によって区切られる。寺院時代では4区画が見られ、各々寺院の境内地などに当たろう。その区画2番目と3番目に墓跡が密集して発見されている。墓の埋葬は大半が桶型の木棺(早はや桶おけ(庶民用の簡易な木棺)であり一部板組の方形木棺、火葬用の蔵骨器もみられる。これらの墓跡は「正行寺」及び「真行寺」の墓所と想定され、本堂などは、より西側にあったものと思われ、西側が表と想定される。町屋時代は区画がはっきりしない部分もあるが、ほぼ寺院時代の区画が維持されている。発掘された遺構は、土蔵基礎.. 方形に溝を掘り、その中に木組その上に礎石等の石組をもつ)、建物基礎と想定される礎石群、陶磁器等が廃棄された穴( 土ど坑こう)などであり、更に東端では胞え衣な皿や桶(便所容器と思われる)を埋めた穴が確認されている。胞衣皿とは素焼きの皿を合わせ、その中に胎盤などを入れて、子どもの成長を願う習わしを示すもので、通常家の土間とか裏手に見られるが、ここでは幼児骨も入っており死産した子どもの再生を願ったものか。また便所用桶は通常家の裏手にある。土蔵は本来敷地内に1基建てられていたようであるが、建て替えも見られる。建物や胞衣皿が見られる時代は東側が敷地の入口とも考えられ、土蔵や便所用桶がある時は東側が裏手と思われる。

胞衣皿

胞衣皿

他に犬の埋葬が南端道路内で見つかり、頭部が欠けていることから、儀式に使われた犬とも思われる。

出土品(遺物)としては様々なものが見られ、近世以前のものとして縄文土器・弥生土器・古代の須す恵え器き・中世板いた碑び(青石製の供養塔婆)の破片がある。近世としては、墓の副葬品として銭貨があり、中国の年号を持つ「渡来銭」、「寛永通宝」、「念仏銭」(「南無阿弥陀仏」と記された埋葬専用の銭)がみられる。他に数珠.. 種子が多く、南アジア産と思われる菩提樹もある)・「カワラケ」(素焼きの皿)などが納められていた。また日常品としては、前期頃の陶磁器が多く出土し、注目されるものに茶器としての白天目茶碗・織部向付け・「初期伊万里」の壺などがあり、中国産磁器皿等も見られる。町屋時代のものとしては、肥前陶磁器.. 有田産磁器・唐津産陶器)、瀬戸美濃産陶磁器のほかに、志し戸と呂ろ産陶器(静岡県)等地方産のやきものもある。注目されるものとしては、鍋島窯大皿(贈答用か)、琉球産壺屋焼き壺、漆器椀・板材(箱の組材か)、土製型(お多福・ 猿等の顔や梅花など)、文字が刻まれた瀬戸美濃産コ利( 酒屋屋号を主)等がある。徳利文字には「下谷長者丁(町)いせやさけ?」とも読めるものもあり、同朋町の南に所在した町屋にあった酒屋とも思われる。

( おまたさとる・東京都台東区教育委員会文化財保護調査員)

 


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