= Cntents Menu =
| TOP | 上野の山の文化施設案内 | 雑誌うえの紹介 | 加盟店紹介 | 上野MAP |

 
シャガール ロシア・アヴァンギャルドとの出会い 〜交錯する夢と前衛〜 薩摩 雅登

 マルク・シャガールはおそらく我が国で最も人気のある西洋近代画家のひとりで、これまでにもシャガール展あるいは近代絵画の展覧会の中で数多くの作品が紹介されてきました。その多くはシャガールをエコール・ド・パリの画家と位置付けることを前提としているようで、そのためか、ある特定のイメージが自明の理のごとくに形成されているようにも思えます。しかし20世紀という激動の時代にフランスを中心に活躍したシャガールは、実は、我々が漠然と想像している以上に多様性、重層性のある作家です。

Centre Pompidou - Mnam - Bibliotheque Kandinsky - Rose Adler

 フランス名マルク・シャガールで知られるこの画家は、1887年7月7日にロシア帝国のヴィテブスク(現在ではベラルーシ共和国)のユダヤ人社会に生まれました。東方キリスト教であるロシア正教の中のユダヤ教徒として育ち、西方キリスト教カトリックの国で人生の大半を過ごし、その間に第1次世界大戦、ロシア革命、第2次世界大戦を体験して100歳近くまで生きたのですから、普通の人の倍くらいの人生だったといえましょう。

 貧しい家庭で育ったシャガールですが、絵の才能を認められて、1907年にサンクト・ペテルブルクの美術学校に入学し、1911年にはパリへ出てきます。世界各国から芸術家が集まり、美術とりわけ絵画の分野で様々な実験が行われていたパリで、若きシャガールは多くのことを吸収しますが、一時帰国中の1914年に第1次世界大戦が勃発して、そのままロシアに留まることになります。1915年に同郷のベラと結婚、ロシア革命の渦中で新しい芸術の理想に高揚して、芸術人民委員として1919年に故郷ヴィテブスクに人民美術学校を開校させます。しかし、ロシアの前衛芸術はシャガールの予想を超えて先鋭化し、自らが招聘したマレーヴィチとの対立などから1920年には故郷を去り、モスクワ、ベルリンなどを経て、1923年にはパリに戻ってきます。

 パリではヴォラール、ドローネー、ピカソなど友人にも恵まれて、1937年にはフランス国籍を取得しますが、時代は2度目の世界大戦へと進み、ドイツが1940年にフランス、1941年にソ連邦に侵攻すると、ユダヤ人シャガールはアメリカに亡命します。ニューヨークでは舞台美術も手がけ回顧展も開催されて厚遇されますが、1944年に最愛の妻ベラが感染病で死去し、異国でしばらく失意の日々を過ごします。1946年に展覧会準備のためにパリを訪れ、1947年にはパリ国立近代美術館で戦後のオープニング展としてシャガール回顧展が開催されます。1952年にロシア系ユダヤ人ヴァランティーナ(ヴァヴァ)と結婚、その後は南フランスに居を構えてステンドグラスの制作など旺盛に活動します。1977年にはフランス政府からレジョン・ドヌール勲章、エルサレム市からは名誉市民の称号を得るなど、名声をほしいままにして、1985年にヴァンスで97歳の長寿を全うします。

 我々が知るのは戦後のフランスの巨匠としてのシャガールですが、そこに至るまでには複雑な人生があったわけで、その作品も多様多彩な傾向を見せます。

 祖国のなかったユダヤ人は自分が生まれ育った土地と社会とりわけ家族をなによりも大切にします。シャガールの絵の中にライトモティーフのように繰り返し登場するのは、故郷ヴィテブスクの町、教会、蝋燭、天使、花嫁、ヴァイオリン弾き、曲芸師、馬、ロバ、鳥などですが、これらはいずれも家族への愛情と幼少期の原体験に基づいています。天使はどこにいたのでしょうか、言うまでもなくロシア・イコンの中にいたわけです。

 パリで様々な技法と表現を吸収したシャガールは絵画技法の粋を尽くして、自らの内にあるイメージと色彩で独自の世界を創出していきました。どこまでが現実でどこからが幻影かわからないような幻想的な世界は、彼の経歴が示すように、現実の我が身はフランスにありながら心ではロシアの故郷ヴィテブスクを忘れることはないというシャガールの人生の投影で、とても他人が真似して追随できる世界ではありません。しかも、油彩画だけではなく、リトグラフ、ステンドグラス、壁画、モザイク、舞台美術と衣装のデザインまで手がけたのですから、まさに万能の画家といえるでしょう。

 その一方で、特に戦前のシャガールは、苦しい時代にも絵を描いて売って生計を立てていたわけですから、多作で必然的に画質にむらがあり、質の低さや制作年代の不明などから真作と確定できない作品もあり、そこにつけこむ贋作もあり、現在でも真贋論争が絶えない作品が残る作家のひとりです。

 このようなシャガールの心の世界に注目して、シャガールをエコール・ド・パリの画家ではなく、ロシア人として、同時代のロシア・ソ連邦の画家たちの作品と並置・対置してみよう、というのが今回の展覧会の趣旨です。全体は第1章「ロシアのネオ・プリミティヴィスム」、第2章「形と光−ロシアの芸術家たちとキュビスム」、第3章「ロシアへの帰郷」、第4章「シャガール独自の世界へ」で構成されて、ゴンチャローワ、ラリオーノフ、カンディンスキー、プーニー、マレーヴィチらの作品の中で、シャガールの優品がほぼ編年的に展示されます。

 それに加えて、第5章「歌劇「魔笛」の舞台美術」では舞台美術と衣装のデザイン・スケッチでシャガール芸術の多様性の一端を紹介します。シャガールは1964年に、かつて亡命していたアメリカ、ニューヨークのメトロポリタン・オペラからモーツァルトの歌劇「魔笛」の新演目のために舞台・衣装デザインを依頼されます。この指揮にはウィーンの大家ヨーゼフ.. クリップスが、演出には1967年からバイエルン国立歌劇場の総監督を務めるギュンター.. レンネルトが起用されて、美術、指揮、演出にフランス、オーストリア、ドイツから大物を揃え、メトロポリタン上演史上ばかりか「魔笛」上演史上に残る名演目となったものです。そのためのデザイン.. スケッチはシャガール芸術のエッセンスともいえる優れた独創的な出来栄えですが、作品の脆弱性から所蔵しているポンピドー・センターでも49枚全てを一堂に展示したことはありません。この機会に美術ファンばかりでなく、音楽ファンの方々にも是非見ていただきたいと思います。

 

(さつま まさと・東京藝術大学大学美術館教授)

 


東京都文京区湯島3-44-1芦苅ビル  〒113-0034
TEL 03-3833-8016  FAX 03-3839-2765


Copyright (c)2002 Ueno Shop Curtain Meeting. All Rights Reserved.