本展覧会は、オーストラリア、メルボルン国立ヴィクトリア美術館の全面的な協力により、ドイツ・ルネサンス期を代表するアルブレヒト・デューラー(1471―1528年)の版画芸術の全貌をお見せする展覧会です
デューラーは、油彩画だけではなく版画においても、主題、技法ともに革新的な作品を次々と生み出しました。ルネサンス期のドイツでは、イタリアのように王侯貴族が宮廷を壁画で飾る習慣がなかったため、美術家たちは、祭壇画や肖像画などの注文を受けて工房を運営する傍ら、市場での需要を見極めながら独自の創意により極めて先進的な版画作品を販売することで糧を得ていました。当時のドイツでは印刷術の発展もあり、多くの美術家によって版画が大量に作り出されましたが、なかでもデューラーは影響力の強い作家でした。彼の版画はアルプスを越え、芸術先進国イタリアの作家までもがデューラー風の作品を作り出すようになります。紙という携帯可能なメディアに刷られたドイツ発信の画像(イメージ)は、国を超えてヨーロッパ全体に行き渡るようになったのです。本展では、彼の版画芸術の全貌を把握するため、彼の作品を制作年代順に並べるのではなく、デューラーが重要だと考えていた主題「宗教」「肖像」「自然」という3つの概念に分けて見て行くものです。
この3つの概念がデューラーによって言及されたのは、『絵画論』という未刊の芸術論においてでした。1508年頃から執筆が始められた『絵画論』は、1513年頃の草稿で「絵画指南」「絵画を目指す若者の教育」「画学生の糧」という3つの章がデューラーによって準備されたものの、これらがまとまったかたちで出版されることはありませんでした。遺された草稿は、合計1、000 葉にもおよび、大部分が大英博物館に所蔵されています。それらのうち、古代の理想的な身体像の再現を求めて研究した比例研究に関する部分のみが『人体均衡論』四書としてデューラーの没後1528年に出版されました。しかしこの書は、挿図こそ豊富ではあったものの極めて数学的な専門書であったため、ドイツの画家たちがこれを利用するということは結局ありませんでした。素晴らしい理論書であっても、それは実用には向かないものとなってしまったのです。
一方で、出版されなかった『絵画論』の草稿には、ドイツの芸術を進歩させたいというデューラーの熱い思いが溢れており、現在ではデューラーの芸術観を知る貴重な史料となっています。この草稿の中で、画家の資質や訓練方法など詳細に述べ、「画学生の糧」の章において、次のような重要な芸術論を記しています。
「絵画芸術とは、教会に奉仕するものであり、それゆえキリストの受難を描くものである。それはまた人間の姿を死後の世にも伝えるものである。大地、水面および星辰の測定は、絵画によって提示されることで理解されやすくなる」

ここでデューラーは、芸術において肝要なのは、「宗教」「肖像」、そして「自然」を測定し、写実的な描写を提示することであると明らかにしています。本展では、これらの主題が実際の作品でどのように視覚化されているのかを見ていくことで、デューラー芸術の本質に迫ります。
メルボルンの質の高いデューラー版画コレクションを日本で紹介するという原案は、すでに2001年には同意されていましたが、このコンセプトがメルボルンで支持され、本格的に実現に向けて優れた刷りの作品を選定し始めたのは2007年のことでした。また、各セクションでは、ベルリン国立版画素描館からの協力で、デューラーの素描作品を1点ずつ導入主題(ライトモチーフ)として最初に展示しています。どの素描にも、版画とは異なった筆跡の魅力を感じてもらえるはずです。紙の上に予断のない線を引く、デューラーの緊張感溢れる素描芸術もぜひご鑑賞ください。
素描と版画を通してデューラーの芸術哲学を知ることこの展覧会で、この試みが成功していることを企画者として強く願っています。近年、現代の美術が素描(ドローイング)を通して語られるのをしばしば見受けます。それは我々の時代の作家たちが、線のもつ強い表現力に改めて気づき始めているからに他なりません。実はデューラーも、16世紀にこのことに気づいていた作家でした。「僅か1日で半紙上にペンで素描され、あるいは木版上に鑿で彫り出されてできた作品が、多大の労力を費やして作られた他の人の1年がかりの大きな作品よりも、一層理論にかなった秀作たりうることも少なくない」と書き残しているほどです。当時、「黒線のアペレス」と、ギリシャの伝説的な画家アペレスに並び称されたのは、まさに線の芸術においてデューラーが極めて秀でていたこと、また、ただ黒い線のみによってデューラーはアペレスの高みにまで達していたことを示しているのです。
(さとう なおき・国立西洋美術館客員研究員・東京藝術大学准教授)
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