
池内淳子さんは仲間うちでは.おっきいちゃんと呼ばれている。木曜の連続ドラマ『ただいま十一人』の長女役のとき、おっきいちゃんと呼ばれていたからであるが、これは池内さんが自宅で呼ばれていた愛称をそのまま使わせていただいた。おっきい姉ちゃんの略である。
手さぐりのナマ本番の時代から、モノクロ、VTR、カラー時代へとずっと一緒にドラマを作ってきた。
おっきいちゃんとの歴史はそのまま私のテレビドラマの歴史でもある。最初の仕事は日曜劇場一九五回(昭和三十五年)の『刺客』。池波正太郎先生原作の時代劇で勿論ナマ本番の時代である。
思う通りの芝居が出来なくて、抜稽古したのを覚えているのが尾上松緑さんとの『木更津河岸』である。時代劇が多かったが、日曜劇場の記念番組での主演が俄然多い。
一〇周年記念(昭和四十二年)の『女と味噌汁6』はカラー放送でもあったが、当時のカラーはみかんが柿色になったり、こたつ掛けが顔に映えて全員まっ赤だったと思うと急に黄疸になったり、その色もにじんで顔からはみ出したりと、今のテレビとは想像も出来ない画面であった。
七〇〇回記念(昭和四十五年)の『女と味噌汁16』、十五周年(昭和四十六年)『夫婦』、九〇〇回(昭和四十九年)『雛の出会い』、一〇〇〇回(昭和五十一年)『母の待人』、一二〇〇回(昭和五十四年)の『女たちの忠臣蔵』と、日曜劇場は池内さんなしでは考えられない。池内さんはまさに日曜劇場の看板女優であり、最多出演者であり、日曜劇場の顔そのものなのだ。一五〇〇回記念『花のこころ』にも出演していただいた。
日曜劇場の他にも、『女の繭』、『出逢い』など連続ドラマも多いからその延本数は相当なものになるだろう。二十代から三十代、四十代、そして五十代、六十代、七十代へとずっとお付き合いをして来たが、たまに暇になるとふと電話をかけたくなる人、気になる人なのだ。
「どうしてる?ご飯でも食べない?」
逢っても別にどうという話をするわけでもないが、お互いに気持ちが安らぐ。つかず離れずのお付き合い、それが友達というものなのだろう。いつどんな状態で逢っても、謙虚で変わらない人である。
普段は、女優だというのにまったくかまわない人である。仕事好きで仕事場と家の間を往復する模範亭主のような人である。家へ帰れば家族によく気をつかう一家の大黒柱で、旦那さまみたいな立場の人なのだ。よほど家の居心地がいいらしく、浮いた話一つないのは、はたしてこれでいいのか悪いのか…。一見、とりすましたA型人間に見えるが、見事なO型人間で、頼りがいがあって愛嬌があって、一緒にいると楽しい人である。
彼女の初舞台は『女と味噌汁』、私の演出である。『初蕾』『鶴八鶴次郎』『葛飾の女』『女たちの忠臣蔵』『母の贈物』など一緒の仕事をしてきたが、稽古熱心で年に何回かの舞台を踏んでいながら、ちっとも変わらない人だ。「ねえ言ってよ」「悪いとこあったら言って」と、稽古場でもいつまでも謙虚な人。いつまでも初日にふるえる人。舞台にありったけの精力でぶつかっていく人。彼女と一緒に仕事をしていると一緒に芝居を作り上げていくという充実感がある。
手さぐりの時代から池内さんとは一緒にドラマを作ってきたが、その間テレビ界は随分と変ってきた。今は、花火を上げるばっかりで派手なものがもてはやされ、何をしゃべっているかわからないようなものがナウイと言われるような風潮がある。花火は派手に上げるだけ、何かむなしさばかりが残るような気がしてならない。
そんな中で池内さんは終始一貫、ちっとも変わっていない。どんな時でもキチッとした仕事をし続けている姿は立派だ。彼女を見るたびに、私も自分の仕事をキチッとしなければいけないと思う…。表面的には変わっても、本質的なものは、いつまでも失ってはいけないと、池内さんを見るたびに思うのである。いいものはいつまで経ってもいいし、必ず最後は残るものなのだ。池内さんは、役者としても、友達としても、人間としても素敵な人である。
九月二十六日
池内淳子さんが亡くなった…。
今でも信じられない、信じたくない気持ちです。
内面からにじみ出るさわやかな色気…
優しさ…囲りの方達を大切にする人…
いつまでも磨き合える人と思っていたのに…
くやしい、なぜ、と云う毎日です。
(しのだけんいち・国立科学博物館人類研究部人類研究グループ長)
かけがえのない友人を失って、なんとも淋しくやりきれ
ない…今でも、池内さんから特徴のある低い声で
「お元気ですか?」と池内さん
「はい元気です」と私。会話はそれだけ…
今も、毎朝、池内さんのモーニングコールを待っている
私です。
一年前に、のれん会のお集りに元気でご一緒したのが夢
の様です。
(いしいふくこ・演出家)
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