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パンダは誰のもの

小宮輝之

パンダ

パンダの語源はネパール語で竹のことを指すポンヤという言葉だと言われています。ネパールではレッサーパンダのことを「竹を食べる動物」を意味するニガリヤ・ポンヤとよんでいました。パンダという名前は、はじめはレッサーパンダに付けられた名前なのです。ヨーロッパに紹介されたレッサーパンダは一八二五年にアイルルス・フルゲンスという学名が付けられました。

ジャイアントパンダは中国で宣教の旅をしていたフランスのダビッド神父によりヨーロッパに紹介されました。一八六九年、レッサーパンダに四四年遅れてアイルロポーダ・メラノレウカという学名が付けられたのです。この学名のヒントになったのが、手すなわち前足でした。最初に送られた標本の手にはレッサーパンダと同じように「第六の指」とよばれる突起があったのです。アイルロポーダのアイルロはアイルルスすなわちレッサーパンダを意味し、ポーダは足を意味します。メラノレウカはギリシャ語の黒メラスと白レウコスを合わせた「黒白の」という意味です。

パンダ

ジャイアントパンダの学名は「パンダ(レッサー)のような足をした、黒白の動物」という意味で名付けられたのです。私が子どものころ、今から半世紀以上も前に買ってもらった動物図鑑にはレッサーパンダをパンダと表記してあり、ジャイアントパンダはイロワケグマ(オオパンダ)とありました。大小二種のパンダはアライグマ科とされたり、独立したパンダ科ができたり、分類には諸説があります。最近では分子生物学的手法、すなわちDNAを調べてジャイアントパンダはクマ科、レッサーパンダはアライグマ科に落ち着きました。「第六の指」が同じなかまの動物とされるきっかけでしたが、これは竹をつかんで食べるという共通の食生活の結果の収斂だったのです。ところでパンダの手にはもう一つ「第七の指」といえる突起も見つかり、竹をつかむのに重要な役割をしていることが判りました。この世界的な発見をしたのは当時国立科学博物館で研究をしていた東大の遠藤秀紀教授です。上野で死んだホァンホァンの手をCTスキャンに入れて調べたところ判明したのです。

ジャイアントパンダが世に紹介されてからは、パンダと言えばジャイアントパンダを指すようになり、本家の小さいパンダはレッサーパンダとかベアーキャットとよばれるようになりました。中国では戦前までレッサーパンダを「竹熊」と表記していましたが、ベアーキャットを訳し直してシュンマオ「熊猫」とよぶようになります。

それに合わせてペイシュンすなわち「白熊」とよんでいたジャイアントパンダもダーシュンマオ「大熊猫」と改名したのです。白熊というよび方は千年以上も前から使われていました。実は六八五年に唐の女帝・則天武后が天武天皇に白熊一つがいを贈ったと日本書紀に記載されています。北極のシロクマとは考えにくいので、飛鳥時代の昔、すでにパンダが日本に輸入されていたのかもしれません。

この黒白の魅力的な動物の存在が知れると欧米の動物園は入手を試み、一九三七年にシカゴ動物園がアメリカ最初の一頭を手に入れます。その後ニューヨーク動物園にも入りました。アメリカにもたらされたパンダは、この愛らしい未知の動物に魅せられた御婦人が競って中国で入手し、持ち帰った幼いパンダで、どれも短命でした。

ヨーロッパではロンドン動物園が一九三八年に飼育したのが最初で、スミスという英国人が中国で十三頭を集めそのうち五頭を持ち帰りました。ロンドン動物園の有名なチチはオーストラリアの動物商がキリン三頭、サイ二頭、カバ二頭、シマウマ二頭との交換で北京動物園から入手したものです。ここまでが、パンダを中国で捕獲したり、購入したり、交換で手に入れることができた時代でした。当時は保護の考えも捕獲の制約もなく、欧米人のやり方でパンダを中国から持ち出すことができたのでしょう。この時期を中国からのパンダ輸出の第一期としましょう。

パンダ輸出の第二期は友好使節としてのパンダ大使の時代です。一九七二年、アメリカのニクソン大統領訪中をきっかけに、春にはワシントン国立動物園にペアのパンダが到着しました。続いて田中角栄首相の訪中による日中国交回復を記念して、同年十月二八日に上野動物園にカンカンとランランが到着したのです。

パンダを外交の手段に使ったのは一九五七年に当時の友好国ソ連のモスクワ動物園への有名なアンアンの贈呈にはじまります。北朝鮮のピョンヤン動物園にもパンダが贈られています。米中、日中に続き国交締結を記念してパンダが贈られた国は順にフランス、イギリス、メキシコ、スペイン、ドイツの七カ国です。このうち繁殖に成功したのはアジアの上野と、ラテンの国メキシコとスペインの三か国だけでした。

第三期といえる現在、中国がパンダを国外に出す仕組みは、パンダ保護の活動に参加する場合のみになりました。第二期政治パンダの時代からパンダ保護資金を集めることを目的とした第三期経済パンダの時代になったといえるでしょう。

上野動物園にいる七頭のゴリラのなかに上野に所有権のあるものは一頭もいません。ゴリラを繁殖させ絶滅から救うため、シドニーのタロンガ動物園からオスのハオコを借り、コモモの誕生に至りました。貸し出す条件は野生のゴリラを救うアフリカでの保護基金への出資で、上野から毎年一万ドルを送っています。五年間の協力の結果、来年からハオコの所有権を上野に譲るとの嬉しい連絡が最近届きました。コモモの所有権はタロンガにありますが、上野の家族群のなかで育てるこで合意しています。

オカピもコンゴの生息地保護基金へ、毎年五千ドルを出資することを条件に上野に来ていて、オカピそのものは無償なのです。アイアイを含むマダガスカルの動物を救うためのマダガスカル・ファウナ・グループにも毎年二千五百ドルを拠出しています。このグループはマダガスカルの自然保護に関心のある欧米の動物園により結成され、アジアからは上野動物園だけが参加しています。

保護基金への参加で動物を飼育し研究し展示もして保護への理解を高めようというシステムは欧米の動物園で発展してきました。中国はパンダという自国の動物を保護するためこの手法を取り入れたのです。ただし、参加するための出資額がずば抜けていることは確かです。五年前の日本では五千頭以上のクマが駆除されましたが、今シーズンも四千頭を上回るクマがこの狭い国土の中で駆除されています。パンダは野生で約千六百頭、飼育しているものが三百頭で、合わせても二千頭にも達しません。

世界中が協力して守らなければ絶滅してしまうであろう希少動物を売り買いすることは、今の時代否定されるようになりました。パンダもゴリラもオカピもアイアイも一動物園のものでも、一国のものでもなく世界の共有財産という考えが定着しつつあります。上野動物園はこれからも地球の宝を守る活動に積極的に参加し取り組んでいきます。

(こみやてるゆき・上野動物園長)

 


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