
フランシスコ・デ・ゴヤ
「スペイン王子 フランシスコ・デ・パウラ・アントニオの肖像」1800年
マドリード、国立プラド美術館所蔵
Archivo Fotogra'fico, Museo Nacional del Prado.Madrid.
スペインの画家フランシスコ・デ・ゴヤの名前は、日本でも、1970年代に堀田善衛が発表した長編評伝『ゴヤ』などによって一般に広く知られている。ゴヤの作品に関して世界最大のコレクションを誇る、スペインの国立プラド美術館(マドリード)の全面的協力のもとで企画された今回の「プラド美術館所蔵ゴヤ光と影」は、日本では実に40年ぶりの本格的なゴヤ展である。この展覧会は全部で14のセクションにより構成され、それぞれのセクションでは、ゴヤが残した膨大な作品の中から、特徴的な主題やトピックを拾いあげる。副題に掲げた「光と影」というキーワードのもとで、多様な切り口からゴヤの画業の断面を示すとともに、彼の芸術の核心に近づいてゆくことが展覧会の狙いである。さまざまな伝説に包まれてきたゴヤの生涯と作品に関する研究は、近年目ざましい進展をとげているが、本展はそうした最新の研究成果を反映するものである。
18世紀後半から19世紀初めまでの時代を生きたゴヤの芸術は、歴史的な大変動のさなかにあったスペイン社会の「光と影」を映し出している。彼は1746年にアラゴン地方の小さな村で職人の息子として生まれ、20代の終わりに成功を夢みて首都マドリードへ移り、1799年に53歳で国王カルロス4世の首席宮廷画家へと登りつめるにいたった。美術界の頂点をきわめるまでの前半生の作品には、泰平の世を謳歌する宮廷人や民衆の姿が描かれている。
マドリードでのゴヤの最初の仕事は、王家の宮殿を飾るタピスリー(つづれ織り)の原画を描くことだった。当時の宮廷画家たちによるタピスリー原画には、市民の日常生活の主題が取り入れられていたが、ゴヤは年長の画家たちの優美で理想化された画風に飽き足らず、庶民の視点から、より現実に即した社会の姿を描いた。彼の作品は、マホとマハ(マドリードの下町に暮らす小粋な男女)、労働者、子どもや老人、富裕層や貴族など、あらゆる階層の人間が主役や脇役を演じ、当時の社会の諸相を映し出す。そこにはすでに、ゴヤの鋭い人間観察眼と、現実に対する批判的な視線をうかがうことができる。

フランシスコ・デ・ゴヤ
《蝶の牡牛》<素描帖G> 53番1825-28年頃
マドリード、国立プラド美術館蔵
Archivo Fotogra'fico,Museo Nacional del Prado.Madrid.
また、1780年に王立美術アカデミーの正会員として認められたゴヤは、やがて肖像画家としての活動を開始した。最初の注文主は時の宰相フロリダブランカ伯爵であり、続いて、国王カルロス3世の弟ドン・ルイス親王や、大貴族のオスーナ公爵夫妻が彼の重要なパトロンとなる。それ以後、各界の著名な人物から注文を受け、ゴヤは当代の最も優れた肖像画家として評価されるにいたった。宮廷画家に任命された1789年以降の肖像画は、モデルの社会的地位を表すことにとどまらず、飾り気のないポーズや微妙な表情によって性格や心理状態を映し出すような域に達する。たとえば、今回の出品作の中で、当時のスペインの最も知的な人物であった政治家ホベリャーノスの肖像(カラー頁)は、ゴヤによる男性肖像画の傑作であり、書物机の前で思索にふけるモデルの人間性が深く表現されている。
しかし、1804年にフランスの皇帝の座についたナポレオンの野望によって、スペインの平和は根底から覆された。ナポレオンは1808年にイベリア半島へ軍を送り、スペイン王家一族を幽閉して自分の兄ジョゼフをスペイン王に即位させる。これに抗議した民衆の蜂起から独立戦争が始まり、スペインは数年にわたって戦火に包まれた。ゴヤは戦闘の犠牲となった民衆の悲惨な現実をあるがままに見つめ、その証言を版画集..戦争の惨禍..として残している。戦争の終結後、フランスに幽閉されていたフェルナンド7世が帰還して王政が復活するが、反動政治をおし進める国王と、それに抵抗する自由主義勢力とのあいだで、政治体制と社会の混乱はなおしばらく続くことになる。60代も末に達したゴヤは、首席宮廷画家の地位を保ったものの復位した国王のために筆をふるうことはもはやなかった。
しかし、晩年の十数年間に、ゴヤの創造意欲は衰えるどころか、ますます強くなってゆく。彼は年齢を重ねるにつれて、自己の内面にひそむ不条理なヴィジョンへの関心を深めるようになり、謎に満ちた版画集<妄> (1816−19年頃)、マドリード郊外に購入した自宅の壁面を暗い幻想で埋めつくした<黒い絵> (1820−23年頃)、78歳から亡命者として人生最後の4年間を過ごしたフランスのボルドーにおける一連の素描作品(1825−28年)など、「最初の近代画家」と呼ばれるにふさわしいユニークな作品群を生み出した。
ゴヤの晩年の作品には、恐怖、愚行、暴力、男女間の葛藤といった、人間の本性に関する個人的なイメージが表現されている。人間観察家ゴヤの集大成とも言えるボルドー時代の素描にしばしば描かれた、快楽と欲求を追うことに執着する老人たちの姿は、滑稽で哀しい人間の業(ごう)に対する彼の諦念を物語るようである。ゴヤは絵筆によって人間の理性や優美さを称えるとともに、愚かな欲望や暗い幻想、暴力的な衝動もまた人間の本質的な一面であることを示してみせた。激動の時代に、深い洞察をもって人間と社会の諸相をとらえたゴヤの芸術は、今日の私たちにも何かを語りかけるだろう。
(むらかみひろや・国立西洋美術館学芸課長)
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