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「うえの」とのご縁 須賀光一

須賀光一

上野動物園とは、当のれん会発足時より親しくお付き合いをいただいております。当時の古賀忠道園長の「動物園日記」は、小誌「うえの」創刊三号目の1959年7月号から約一年の連載でした。以後、歴代の園長、飼育課長の方々から、折々の玉稿をいただいてきました。とりわけ中川志郎さんとは長く深いご縁になります。

初めてのご執筆は、1972年2月号に「冬の動物たち」と題して。猿山のニホンザルたちは真冬こそが恋の季節だ、ということを実証的に語ってくださる飼育課長さんでした。この年10月にパンダ二頭が初来日して、超多忙の人となりながらも、二年後の1974年5月号からは「動物園紳士録」の連載開始。その第一回が「パンダ結婚作戦」でした。そうして五年越しの連載の最終回が「パンダ流産騒動」

中川さんはエッセイの中で「動物園は博物館とはちがう。存在空間ではなく生活空間を設けること」と再三述べておられます。動物の心を大切に、動物とともに生きること。パンダの妊娠や流産や、期待と心配の連続ながらも、その先進的な気概が「うえの」の毎号の誌面から窺えるのでした。

黒柳徹子さんとの対談「動物とつきあう方法」(1977年3月号)をはじめ、座談会にも何度かお付き合いいただきました。

1984年には、多摩動物公園長として赴任。しばらく上野をはなれますが、三年後には上野動物園長に着任されました。そして1988年8月号から新連載「園長日記」開始。第一回が題して「ヒト・どうぶつ・動物園」そもそも日給二三〇円の臨時職員として入園されたのが1952年で、移動動物園に加わり北海道まで五ヶ月の旅をした。そのときからの人との出会いを大切に、動物園の足跡を語り起こす。こうしてこの連載は、園長を退任された1990年8月号まで丸二年つづきました。

そして、翌月の9月号から、新連載「地球に生きる仲間たち」へ。その第一回「先輩」は、定年退職の翌日、一民間人として上野動物園を訪れる日記でした。動物慰霊碑の碑文に故古賀忠道先生を偲び、在籍三十八年間の自分よりも前からいるのは、象のジャンボと、チンパンジーのビルだけになったこと。この両先輩を訪ねて、ごくろうさん、むりすんなよ、と声をかけるのでした。

この連載は、じつに丸二十二年間つづきました。その間に、茨城県自然博物館の館長になられ、また東京動物園協会理事長を務められました。何年か前のこと、小誌の編集スタッフと自然博物館を訪れて、大歓待をいただきました。ご多忙の身なのに、にこやかなお顔で迎えてくださり、園内くまなく案内され、食事もご馳走になって、たっぷり歓談をたのしみました。

当のれん会の月例会に、ゲストスピーカーとしてお迎えしたときも、「博物館のチケット持ってくると、コーヒーがサービスなんて、こんなユニークなことやっているのは、上野の街だけだよ」と褒めてくださいました。例年五月の「国際博物館の日」をはさんで二週間、当のれん会加盟店有志は、上野の博物館美術館のチケット半券持参の方々に、生ビール、グラスワイン、ソフトドリンク、または会計の5%、10%引きなど種々のサービスを致しております。委細は小誌5月号をご覧ください。こういう努力にも気を配ってくださる中川さんでした。

本年7月号の第二百六十二回目は「パンダの子守唄」科学がいかに発達しようが動物の新しい「種」をつくりだすことはできない。一つの種の絶滅を救うべき人類の責務を実証的に語って、これが絶筆となりました。

告別式にはスタッフともども参列しました。喪主代理のご長女さまのご挨拶のなかで、この連載に触れてくださり、感銘しました。要旨つぎのごとく。

<「うえの」の7月号は入院中に書いたものです。娘の真美が、父にとっては孫ですが、その真美が印字したのを何度も目を通して仕上げたものです。これなら次も大丈夫と、8月号の構想もできていたようです。まさかこれで絶筆になろうとは、父も思っていなかったでしょう。仕事一筋でしたが、家に帰れば、淋しがりやで、食いしん坊で、お茶目な父でした。孫たちと話すのを楽しんでいました。>

次の世代へ、中川さんの魂は引き継がれ、生き続けてゆくことでしょう。ほんとうに多年ありがとうございました。やすらかにお眠りください。

(すがこういち・上野のれん会会長)

 


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