
重要文化財宇豆柱鎌倉時代・宝治2年(1248)
出雲大社境内遺跡 島根県・出雲大社
今年は出雲を舞台とした八俣大蛇(やまたのおろち)退治や国譲りなどの神話、出雲大社の創建について語られている『古事記』が編纂されてちょうど一三〇〇年の記念の年にあたります。
檜皮葺(ひわだぶき)の屋根の葺き替えが来年三月に完了し、五月には、御祭神を仮殿から本殿に遷座(せんざ)する「平成の大遷宮」がおこなわれます。
これを機に、出雲大社および出雲国造(いずもこくそう)の千家(せんげ)家と北島(きたじま)家に伝わった宝物や島根を代表する国宝の青銅器、社寺の神像、工芸品など名宝をとおして、独特の文化を形作った聖地、出雲を紹介いたします。
会場は東京国立博物館本館の特別五室と四室。五室では「出雲大社の歴史と宝物」、四室では「島根の至宝」というテーマでご覧いただきます。
出雲大社の歴史と宝物
『古事記』には、大国主神(おおくにぬしのかみ)が治めていた葦原中国(あしのはらのなかつくに)を、高天原(たかあまはら)の天照大御神(あまてらすおおみかみ)に譲る代わりに、大国主神は、柱は太く、高天原に届くほどの千木(ちぎ)をそびえさせた壮大な宮殿の建築を求めたことが語られています。この宮殿こそが出雲大社の創始です。
平安時代の『口遊(くちずさみ)』という貴族の子弟のための教科書には、当時の高層建築の筆頭に出雲大社があげられており、高さ十五丈(約四五m)といわれた東大寺の大仏殿よりも高かったと記されています。千家家には、このようなかつての出雲大社の本殿をうかがわせる「金輪御造営差図(かなわごぞうえいさしず)」という平面図が伝えられていました。
平成一二年( 二〇〇〇)、出雲大社の本殿と拝殿の間でおこなわれた発掘調査で、巨大な柱の跡が三か所みつかりました。この柱は、杉の丸太三本を束ねて一つの柱としており、「金輪御造営差図」に描かれた柱と一致し、この図のような本殿が存在したことが明らかとなって、一躍注目されるようになりました。発見されたこれらの柱は本殿の中心となる心御柱(しんのみはしら)、正面中央の宇豆柱(うづばしら)、南東側柱で、鎌倉時代、宝治二年( 一二四八)造営の本殿の跡である可能性が高いと考えられています。宇豆柱の丸太の直径は一・一から一・三五m、三本を束ねた直径は約三m。この宇豆柱を東京ではじめて公開します。会場では、平安時代の推定復元による十分の一の模型によって高くそびえていた本殿に思いをめぐらせていただき、大社の宝物である国宝秋野鹿蒔絵手箱(あきのしかまきえてばこ)(一〇月一〇日から一一月四日展示)や後醍醐天皇が大社に宛てた文書、千家家、北島家に伝わった記録や絵図から出雲大社の歴史をご覧いただきます。
島根の至宝
昭和五九年(一九八四)、宍道湖(しんじこ)南西部の荒神谷(こうじんだに)から三五八本の銅剣が、翌年には一六本の銅矛と六個の銅鐸が発見されました。それまで日本全国で出土した銅剣の総数が三〇〇本余であったことや、学校では北部九州を中心とする銅矛・銅剣文化圏、近畿地方を中心とする銅鐸文化圏を教えていた頃に、銅矛と銅鐸がはじめて一緒に発見されて、考古学や古代史上の大発見として、大きな話題となりました。
さらに、平成八年(一九九六)、荒神谷遺跡の四q南の加茂岩倉(かもいわくら)遺跡で、一つの遺跡からの出土数では最も多い三九個の銅鐸が出土しました。両遺跡の発見は、出雲という地域や、弥生時代の社会のイメージを大きく変えることになりました。誰が、これだけ大量の青銅器を埋納したのか、答えはいまだ謎のままですが、国宝となったこの二つの遺跡の四一九点にのぼる青銅器のなかから七九点と、製作当初の光輝く様子がわかる復元模造品を展示いたします。
また、七世紀に出雲で制作されたと考えられる鰐淵寺(がくえんじ)の重要文化財観音菩薩立像をはじめ、清水寺、赤穴八幡宮(あかなはちまんぐう)の神像や、戦国時代の出雲の大名尼子(あまご)氏が奉納したといわれる佐太神社の甲や須佐神社の太刀など島根に伝わった名宝を紹介いたします。
全国で唯一、十月を神在月(かみありづき)と称する出雲。今年は、お集まりの神様に出雲の数々の宝物が東京に出品されることをお許しいただき、出雲の至宝に触れていただきたいと思います。
なお、東京国立博物館本館前で、お手持ちのスマートフォン・タブレット端末(一部対応していない機種があります)で、専用アプリ(無料)をダウンロードしていただきますと、約四八mの出雲大社の巨大神殿を画面上で体験していただくことができます。
(いけだひろし・東京国立博物館上席研究員) |